昭和57年11月25日~昭和62年10月31日
鈴木内閣退陣のあと、四年ぶりに全党員・党友の参加による総裁選挙が行われた結果、中曽根康弘氏が第十一代総裁に選ばれ、清新気鋭の中曽根新内閣が登場しました。
新政権の発足に当たり、中曽根首相は、「思いやりと責任」「直接国民に話しかけるわかり易い政治」を基本姿勢に、「内外における平和の維持と民主主義の健全な発展」「たくましい福祉と文化の国日本の創造」を政治目標に掲げて、国民の協力を要請しました。
また政策的には、まず外交面で、世界に開かれた日本の見地に立って、「自由貿易の維持強化のための市場開放対策のいっそうの推進」「世界経済の活性化と着実な拡大への貢献」「世界の平和維持のための米国、ASEAN(東南アジア諸国連合)はじめ近接するアジア諸国、西欧諸国など自由主義諸国との連帯強化」「軍縮の推進と総合安全保障体制の拡充」等の諸政策の実行を公約しました。
さらに内政面では、鈴木前内閣以来の方針を継承して、「行財政改革の推進」を最重要課題に取り上げるとともに、「国鉄の再建」「創造的な新技術の研究・開発とその導入」「生産性の向上を基本とする農林水産業の体質強化と中小企業の近代化」「国土緑化対策の推進」「がん研究対策の強化」「住宅・都市再開発対策の整備」「非行青少年対策の充実」等を重点政策に掲げました。
中曽根首相が、このような基本姿勢と政治目標、重点政策等を打ち出した背景には、次のような首相独自の時代認識と政治哲学が、色こく反映していたことを見逃すことはできません。すなわち、まず国際的には、戦後長きにわたり、戦後世界の平和と繁栄を支えてきた政治、軍事、経済に関する基本秩序は、急激な時代の変化によってようやく崩壊の危機に瀕し、わが国はいまや、自由世界第二位の経済大国として、米国、西欧諸国など先進民主主義各国とともに、新たなる平和、経済秩序の再構築のために重大な責任を担うにいたったこと、また国内的にも、低成長時代への移行と急速な高齢化社会の到来などにそなえて、健全な民主主義の再生と社会・経済の活性化を基軸に、一切のタブーを設けることなく従来の基本的な制度や仕組みの見直しを行う必要があること――などの透徹した時代認識がそれでした。
中曽根首相が、就任後初の施政方針演説の中で、「わが国はいま、戦後史の大きな転換点に立っている」と述べて、既成の価値観にとらわれず戦後政治の総決算を行い、時代の変化に即応した新構想のもとに、適切な内外政策を強力に推進する決意を表明したのは、その現われだったといってもよいでしょう。
以後、中曽根首相は、自らの信ずる理想と信念の達成に向かって、外交に内政に、まことにめざましい活躍を開始したのでした。
まず外交面では、五十八年一月早々、日韓国交正常化後、わが国の首相としては実質的に初めて韓国を公式訪問。全斗煥大統領と会談して、多年の懸案となっていた経済協力問題について、総額四十億ドルとすることで一挙に解決するとともに、「新しい次元に立った日韓関係」をうたった共同声明を発表、今後幅広い国民的基盤に基づいた両国関係を発展させていくことで合意しました。
引き続いて同月中旬、こんどは米国を訪問してレーガン大統領と会談、国際情勢全般と両国間に存在する諸問題について意見を交換して、日米親善友好関係の基盤を固めました。とくにこの中で中曽根首相が、「日米両国は太平洋をはさむ運命共同体である」と述べるとともに、今後わが国が、平和と安全のために積極的に責任を分かちあう決意を表明し、両国間の信頼の絆をさらに確固としたものにすることに成功したことは、大平、鈴木両内閣以来続けられてきた日米関係強化の路線を、さらに一歩前進させたものとして高く評価さるべき業績でした。
日米外交と並んで、近接するアジア太平洋地域との外交を重視する中曽根首相は、同年四月末、ASEAN(東南アジア諸国連合)五カ国とブルネイ訪問の途につき、世界不況の影響をうけていくたの経済的苦境に立つASEAN各国の首脳と会談、歴代内閣が公約してきた経済協力その他の諸案件の着実な処理を約束するとともに、「ASEANの繁栄なくして日本の繁栄なし」と述べて、各国に多大の感銘を与えました。
このような意欲的な中曽根外交の展開の中で、ひときわ光彩を放ったのは、同年五月末、米国の古都ウィリアムズバーグで開かれた先進国首脳会議での中曽根首相の積極的な活躍でした。
首脳会談の幕あけとともに、冒頭発言に立った中曽根首相は、この首脳会議が現在、世界をおおう先行き不透明感を払拭し、世界の期待にこたえるための共同行動の指針として、(1)西側先進諸国の連帯と協調による一枚岩の結束、(2)内外のバランスのとれた経済運営、幅広い構造調整の推進、自由貿易体制の堅持による世界経済のインフレなき持続的成長、(3)南北間の対話の促進と南側の自助努力に対する支援の推進、(4)東西経済関係についての協調的行動の四項目を提案して、会議全体のリード役の役割を果たしました。また米ソ間の中距離核戦力交渉(INF)について、「グローバルな視点に立った解決」を提唱、各国首脳の同意を得たことは、ソ連のSS20の脅威に対し、自由主義陣営全体の協力で阻止する基盤を固めたものとして、特筆すべき成果だったといえるでしょう。
以上のような外交努力と相まって、自由貿易体制の維持強化のための国際責任履行の一環として、精力的に一連の市場開放政策を進めたことも見逃せません。
すなわち、五十八年一月、農産品四十七品目、工業品二十八品目の合計七十五品目の関税引き下げを中心とする包括的市場開放政策を決定したほか、さらに従来、関税引き下げ中心だった市場開放策から一歩進めて、輸入検査、規格・基準など、わが国の社会風土に根ざした非関税障壁を一掃し、内外無差別の原則を打ち出した「市場開放促進法」を制定するという勇断をふるったことは、中曽根内閣の画期的な業績の一つに数えられるでしょう。
一方、内政面に移りますと、何といっても、中曽根内閣の最重要課題に掲げた行財政改革の積極的な推進が特徴的です。まず財政改革の面では、五十六、五十七両年度にわたる大幅な歳入の減少によって、事実上、赤字特例公債依存の五十九年度脱却は不可能になったものの、昭和五十八年度予算の編成に当たって中曽根首相は、「増税なき財政再建」の既定方針を毅然として貫き、全く前例のない五パーセントのマイナス・シーリングの基本方針のもとに歳出の削減につとめ、一般会計予算の歳出規模は対前年度比わずか一・八パーセントという、わが国財政史上かつてない超緊縮予算を組んだのでありました。
また行政改革の面では、鈴木前内閣以来引き続いていた臨時行政調査会の作業は、五十八年二月の行政改革推進体制の在り方に関する第四次答申、同年三月の最終答申をもってその任務を完了しました。これをうけて同年五月、その具体化の方策と実施の優先順位および目標時期等を盛りこんだ「行政改革大綱」を決定する一方、同年春の第九十八通常国会では、「臨時行政改革推進審議会設置法」、国鉄再建のための「日本国有鉄道経営再建臨時措置法」を制定させたほか、公的年金一元化のための各種立法措置を急ぐなど、着々と臨調答申を尊重した行政改革を推進しています。
一方、五十八年は"選挙の年"でした。四月には第十回統一地方選挙があり、自由民主党は好成績をおさめました。続く六月の第十三回参議院通常選挙では、選挙法の改正により、これまでの全国区制を改め、拘束名簿式比例代表制による政党名投票が採用されました。その結果、自民党は安定多数をさらに強固なものにすることができました。しかし、十二月に行われた第三十七回衆議院議員総選挙では、史上最低の六七・九四パーセントという投票率の影響もあって、解散議席を三十五名減らし、衆議院の単独過半数を下回る敗北を喫しました。その後、新自由クラブとの政策的合意による院内会派「自由民主党・新自由国民連合」を結成し、二百六十七議席の安定多数となり政局の運営を行うことになりました。
総選挙後の特別国会では、冒頭において、中曽根総裁が再び内閣首班に指名され、即日、第二次中曽根内閣が発足しました。
この頃、国内的には、戦後史上でも特筆されるような引き続く物価安定の中で、経済は新しい発展の力を見せ始めています。同時に、肥大化した行政の制度・機構を抜本的に改革し、効率的近代的行政体系を確立するため、五十九年七月に「総務庁」を設置し、さらに国の地方出先機関を整理し、医療保険制度を改革し、専売公社、電電公社の改革も実行に移しました。この行政改革と財政改革という日本の二大基本的改革に加えて、中曽根首相は、国民的輪を広げ、大きな国民の力を背景にした教育改革も新たにスタートさせました。
そして五十九年十月、党総裁選挙では、中曽根総裁ただ一人が立候補の届け出をし、選挙を行うことなく再選されました。
昭和六十年は、時あたかも、昭和二十年の終戦より四十年、立党三十年、明治十八年の内閣制度創設より百年、歴史の流れにおける大きな節目というべき年でありました。党においては、全国で三百六十四万五千八百四十三人という、党史上最高の党員数を記録しました。また自由国民会議の会員である党友も、四十九万七千三百二十四人となり、わが党は党員・党友あわせて実に四百十数万人という大きな組織に成長しました。ここに自民党は、党員による強力な基盤を固めたのです。十一月十五日、自由民主党は立党三十周年を迎えました。内に国民生活を向上させ、外に国際社会で重要な地位を築き上げた先達の輝しい偉業を讃え、これからも建設的で、二十一世紀に向かって先導的な政策を打ち出していくための「特別宣言」「新政策綱領」を採択したのでした。自由民主党と中曽根首相は、いよいよ迫ってきた二十一世紀に向かって、さらに力強く前進を続けています。
一方、昭和六十年は世界の歴史の上でも記憶に値する年でした。西側のINF配備開始をきっかけに米ソ軍縮交渉が再開され、ソ連では新たにゴルバチョフ書記長が就任して軍縮・平和共存路線を打ち出し、東西対立緩和の兆しが見られました。中曽根首相はチェルネンコ前書記長の葬儀に出席のため訪ソした際、ゴルバチョフ書記長と会談して領土問題の解決を強く訴え、ソ連側も日ソ関係の安定化に同意しました。また、中国でも指導部が若返って改革・開放の路線が強まり、朝鮮半島でも南北対話が活発化しました。国際経済面では、先進国間の経済摩擦が深刻化して保護主義が台頭し、開発途上国では累積債務の増大が世界経済の発展に不安定要因をもたらすことが懸念されるようになりました。とくに日米間では、貿易不均衡が大きく問題化したので、中曽根内閣は、新たな市場開放策として「アクション・プログラム」を決定し、五月に行われたボン・サミットでも、中曽根首相は、新ラウンドの早期開始を力強く主張しました。
さらに、中曽根首相は、秋の国連創設四十周年記念会期に出席し、記念演説を行って、平和と軍縮の推進、自由貿易と開発途上国への協力、世界の文化・文明の発展に協力するわが国の基本方針を明らかにしました。また、この期に、六年半ぶりの米ソ首脳会談を控えたレーガン米大統領の提唱で「緊急サミット」が行われ、西側各国の結束と連帯が決議されましたが、中曽根首相は、軍縮の問題は世界的規模で解決されるべきで、アジアが犠牲になってはならないことを強調し、各国の合意を得ることができました。戦後四十年、かつての敗戦国・日本はもはや紛うことなく、世界の重要な指導国の一つと見られるにいたっていたのです。
なお、この年十二月には、内閣制度創始百周年記念式典が開催され、天皇陛下が初めて首相官邸に赴かれて、これに臨席されました。
昭和六十一年は、五月に二度目の東京サミット、夏に衆議院議員選挙、そして秋には中曽根総裁の任期切れに伴う総裁選挙が予定されており、しかも、解散・総選挙含みというのが、この年頭の政局見通しでした。
中曽根首相は、一月にはカナダを、四月には米国を訪れて、土台づくりを行い、東京サミットを見事に成功に導きました。ここで発表された「東京経済宣言」では、インフレなき成長の持続ほか、政策協調の必要が強く打ち出され、参加国の固い結束がはかられました。
選挙がらみの政局のなかで解決を迫られていたのは、衆議院の定数是正の問題です。これはすでに昭和五十八年の総選挙の時点で、議員一人当たりの有権者数の格差が最大四・四倍に達していたため最高裁がその是正を求めていたものです。自由民主党は、前年の国会に六選挙区で増員、六選挙区で減員のいわゆる六増六減案を提出しましたが、野党の同意を得られずに成立を断念したという経緯があり、これをクリアしないかぎり、かりに総選挙を行っても、違法とされかねないという苦しい局面に立たされていました。そこで自由民主党は、一票の格差を三倍以内に改める八増七減案を提出、第百四回通常国会でこれを成立させました。
六月二日、臨時国会解散と同時に国会は解散、衆議院選挙は参議院選挙と同日選挙で行われることとなり、自由民主党はこれを「二十一世紀を目ざす日本の軌道を設定する選挙」と位置づけて、戦いに突入しました。中曽根首相は遊説のなかで、「国民や党員が反対する大型間接税と称するものをやる考えはない」と明言し、行革の推進、社会資本整備の促進、教育改革の推進等を訴えました。七月六日の投票の結果、自由民主党は、追加公認を加えて、衆議院において三百四議席、参議院においては七十四議席を獲得するという目ざましい勝利をおさめました。これは両院ともに、立党以来最高の当選者です。開票三日後に首相官邸を訪れた岸元首相は、「この大勝はまさに保守合同の成果と言うべく喜びに堪えない」と述べました。
こうして第三次中曽根内閣が発足しましたが、中曽根総裁のめざましい指導下にかちとられた選挙結果をうけて、九月の党大会に代わる両院議員総会で、中曽根総裁の党総裁としての任期を、翌年十月三十日まで一年間延長することが決定されたのです。
なお、この年、昭和六十一年四月には天皇陛下ご在位六十年記念式典が盛大に挙行されました。
昭和六十二年は、前年十二月に党税制調査会がまとめた税制改革案をめぐる攻防で開けました。この案は、所得・住民・法人税の減税と新型間接税である「売上税」を組み合わせたものでしたが、野党は、「大型間接税を行わない」との中曽根首相の約束に反するものとしてこれを攻撃し、国会は冒頭から荒れ模様となって、予算審議は難航しました。野党攻勢に拍車をかけたのは、三月の参議院岩手選挙区補欠選挙における社会党候補の勝利と、四月の統一地方選挙における自由民主党の不振です。党執行部の方針に批判的な声が出はじめ、予算は議長の調停でようやく通過したものの、売上税は廃案になりました。
もう一方、政府が対応に追われたのは、日米経済摩擦の深刻化です。この年、日本の貿易黒字が千億ドル以上、対米黒字も五百億ドル以上と、いずれも史上最高を記録するようになったのがその原因でした。レーガン米大統領は二月に包括貿易法案を議会に提出し、三月には日本が日米半導体協定に違反しているとして、一九七四年通商法三〇一条にもとづく対日制裁措置を発表し、四月には日本の内需拡大政策の推進を強く求めました。このため、中曽根首相は訪米して大統領と話し合い、制裁措置の早期解除の約束を取りつけるとともに、構造調整のための総額六兆円強におよぶ緊急経済対策を決定し、百九回臨時国会で成立した補正予算でこれを裏付けました。その政策効果はめざましいものがあり、その後の日本経済の本格的な構造転換を方向づけたのです。
夏から秋にかけて、政局は秋の党総裁選挙に集中しました。いわゆるニューリーダーと呼ばれる竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一蔵相が候補者と目されましたが、それに加えて、二階堂進前副総裁が出馬の意思を表明しました。党則上は、四名以上立候補の場合、党員・党友による予備選挙を行う規定になっていたので、予備選必至と思われましたが、告示前日に二階堂前副総裁が立候補辞退を声明し、本選挙は、党所属国会議員による本選挙のみで行われることとなりました。
政権構想としては、竹下候補が「世界にひらく『文化経済国家』の創造」のため"ふるさと創生"を実現することを上げ、宮沢候補が「『二十一世紀国家』の建設」をめざして"生活大国"を唱え、さらに安倍候補は「新しい日本の創造」を掲げて"ニューグロウス"と"創造的外交"を訴えました。
十月三十日に予定されていた本選挙は二十日に繰り上げられましたが、その間に三者間で一本化の話し合いが進み、最後に竹下指名の中曽根裁定が実現して、十月三十一日に党臨時大会で、竹下候補の後継総裁が確定したのです。
中曽根首相は、内においては、「戦後政治の総決算」を目ざして、行財政改革、税制改革、教育改革に大胆に取り組み、外に向かっては、「国際国家・日本」を合言葉に、政治的には西側陣営の一員としての立場を確立し、経済的には自由貿易体制の擁護につとめ、開発途上国の支援に力を入れるなど、わが国の国際的地位を大きく向上させました。その首相在任期間は千八百六日、戦後では佐藤、吉田両政権に次ぐ長期政権でした。